*SAKULIVE*

音楽と桜とミルクティーをこよなく愛す社会人の、音楽についての感想文集。

誰かのための芸術、自分のための芸術

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今日は大学時代の友人と3人で、あべのハルカス美術館で開催されていた「ラファエル前派の軌跡展」に行ってきました。
またも最終日に滑り込み。
もう、グッズ売場で次の展覧会の前売りチケットを買うのをやめますね…反省。

本展は、ラファエル前派を擁護し、美術批評家としてのちの画家に多大なる影響を与えたラスキンを軸に、ラスキンが敬愛したターナーに始まり、ラスキン自身の作品、ラファエル前派を代表する画家の作品や、彼らが産業革命期に生み出した製品のデザインまで、その名の通りラファエル前派の軌跡を巡ることのできるものとなっています。

ラスキンを魅了したターナーの作品の空と光が美しかったり、ミレイの「滝」の自然のリアルな艶に見入ってしまったり、ジョーンズの「慈悲深き騎士」が、なんだか現代映画のキービジュアルみたいで心惹かれたり、ウィリアム・モリスの「いちご泥棒」というデザインがとてもかわいかったりと、素晴らしい作品がたくさんありました。

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▲ミレイ「滝」(撮影可でした)

今回注目したいのは、美術評論家ラスキン自身が描いた作品たち。

今回の展示では、ラファエル前派を擁護し、数多くの著書を遺したラスキンの作品が数多く展示されています。
欧州の山々、建築のスケッチ、などなど。
しかし、その多くは未完成に留まっているように見えます。
途中までしか色が塗られてなかったり、鉛筆描きのままだったり。
特に“未完”との注釈はありませんでしたが、わたしの感覚だと、それらは未完成であるように見えました。

実際のところは分かりません。
執筆のために必要なスケッチだったのかもしれないし、未完成というのは誤りで、ラスキンの中では立派な完成作だったのかもしれない。
しかし、わたしはこう思ったのです。

「これらは、自分のための芸術だったんだろうなぁ」と。

ここで思い出したのが、AKIHIDEさんとたざわさんが、共通していつも伝えてくださる言葉でした。

それは、
「聴いてくれる人がいるから、音楽を続けられる」ということ。

彼らは共通して、聴いてくれる人がいなければ音楽は鳴っても意味がない、という趣旨のことをおっしゃるのです。

それはつまり、AKIHIDEさんやたざわさんにとっての芸術は、「誰かのための芸術」なのではないか、と言うことができると思うのです。

もちろん、AKIHIDEさんもたざわさんも、「自分のための芸術」を創られることもあると思います。
例えば、今年音源化される、AKIHIDEさんの「青空」は、AKIHIDEさんが、20年前にAKIHIDEさんのために創られた楽曲。
作品にすることはないと思っていた、とおっしゃっていました。

でもきっと、そんな音楽は一部で、AKIHIDEさんやたざわさんが創られた音楽は、例えそれがまだ、世に出ていない曲だったとしても、基本的には、「誰かのための芸術」という側面を持った曲なんじゃないかな、と思うのです。

AKIHIDEさんやたざわさんが、
「聴いてくれる人がいるから、音楽を続けられる」とおっしゃる度に、思い出す台詞があります。

それが、今年出合った小説/映画『蜂蜜と遠雷』の、“家にピアノがない”天才ピアニスト・風間塵の

「世界中にたった一人でも、野原にピアノが転がってたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好き」

という台詞です。

これを聞いて思ったんです。
AKIHIDEさんは、もし、世界中にたった一人でも、ギターを奏で続けるんじゃないのかな、って。
たざわさんは分からないですけど。

だから、いつか、長くお話できる機会があれば

「世界中にたった一人だとしても、音楽を奏でますか?」

って聞いてみたい、という想いがあります。
「聴いてくれる人がいるから、音楽を続けられる」
と言ってくださる方に聞くにはあまりにも失礼な質問なので、実現する日は来ないのですが。

きっと、AKIHIDEさんもたざわさんも、たとえ世界中にたった一人だったとしても、音楽を奏でるくらい、音楽がお好きだと思うんです。

話をラスキンに戻します。

先に、わたしは、ラスキンの作品たちを「自分のための芸術」なのではないか、と書きました。
ラスキンの作品を見ていて感じたのは、
「『自分のための芸術』ならば、その作品は必ずしも完成させなくてもいいんだな」
ということでした。

ラスキンがどのような想いで作品を描いていたのか、正直よく分からなかったのですが、鉛筆の下描きが残されたまま終わっている作品や、無造作に角を斜めに切られた紙の上に描かれた作品からは、
“自身の創作意欲のままに描いている”感覚を感じました。
創作意欲の結晶。
描きたいことを描き尽くせば、その作品を他者が観たとき、たとえ未完成のように見えても、終わる。

「他者から見た完成」と、「自分のための完成」は、異なるのだなぁということを実感しました。

他者が「自分のための芸術」を受け止める難しさも感じました。
わたし自身が素描や習作から何かを学び取る知性に乏しいことも大きな原因だと思うのですが。

習作や素描はよく展示されていますが、ラスキンは特にそういう作品が多かったので、改めて「自分のための芸術」について考えるきっかけとなりました。

他者が習作や未完成の作品を観ると、描かれていない部分に目が行って、
「完成していたらとても素敵な作品だったのだろうな」
と思いがちですが、きちんと描かれている部分にこそ、その作品の神髄が表れているのかもしれないな、と思いました。

余談ですが、書きながら頭を過ったのは、いつまでもアルバムが完成しないとあるバンドの存在でした(笑)
とあるバンドはこの話とは逆で、「自分のための芸術」のレベルが高すぎて、いつまでもそのレベルに達しないのかな、と思います。

「誰かのための芸術」に作品を昇華させるのに必要なのは、下書きにペンを入れるだけでなく、作品のクオリティに折り合いをつけて、例え下書きに納得がいってなかったとしても、ペンを入れ始めて完成させることなのかもしれませんね。

あのバンドはきっと、下描きを描いて消しては繰り返し、どんなペンで描くか悩み、悩んだ末に下描きから白紙に戻し…というのを繰り返しているのではないでしょうか…。(勝手な想像ですけどね)

悩んでもペンを入れて作品を完成させる。

その繰り返しで、「誰かのための芸術」の歴史は作られていくのですね。

「誰かのための芸術」を、好きなアーティストのみなさんが日々生み出してくださることに感謝しながら、明日からも生きていきたいな、と思います。

 

ラスキンの作品について、「自分のための芸術」という仮定を元に論を進めていますが、誤りであれば申し訳ありません。