映画「蜜蜂と遠雷」を観た。
恩田陸さんの同名小説の映画化である。
3年に一度開催される、芳ヶ江国際ピアノコンクール。
4人のコンテスタント(出場者)を軸に、書類選考落選者対象のオーディションから、本選までを描く。
先日「人間失格」を観に行った際にチラシを見かけて、背景の色彩の鮮やかさに惹かれてチラシを持って帰ってきた。
一緒にいた友人はその時、
「これ、ずっと『蜂蜜と遠雷』だと思ってた。観たい」
と言っていたのだけど、わたしの中で「映画館に映画を観に行く」というハードルは高く、その時は観に行こうという話にはならなかった。
しかし、数日経って、何をきっかけだったか忘れてしまったのだけれどわたしも観たくなり、友人を誘って一緒に観に行くことになった。
友人、振り回してごめん………。
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原作となった同名小説は、上下巻合わせて1000ページを超える大作である。
全く予習をせずに観に行ったが、この重厚な小説を2時間にまとめあげた映画はすごいと思う。
ピアノコンクールを題材にした作品ということで、登場するコンテスタント毎に、演奏を担当したピアニストが異なる。
それぞれのピアニストが、それぞれの登場人物の想いを乗せて弾いた音が使われている。
音楽を第一に、丁寧に描かれた作品になっている。
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その代償に、大幅に削られたものがある。
登場人物の心情である。
映画の登場人物は、それぞれが何を考えているのか、わかるようでわからない。
精鋭のピアニストたちが音で語っているではないか、と言われると思う。
原作でも、
「音楽は世界共通言語で羨ましい」
という台詞が出てくるとおり、音楽はどの国籍の、どの年齢の人に対しても平等に、“きこえる”。
ただ、その音から、どれだけの心情を汲み取れるかどうかは、聴かせる者よりも、聴く者の能力が問われるのである。
わたしは音から多くの心情を読みとれる耳は持っていないので、映画から、登場人物の心情を読みとるのが非常に難しかった。
例えばコンテスタントのひとり、亜夜。
20歳の亜夜は、かつて天才少女と持て囃されたピアニスト。
7年前、母の死をきっかけにピアノが弾けなくなり、コンツェルトをドタキャンして以降は表舞台から姿を消していた。
今回のコンクールで突然復活し、聴衆の沈黙を集めている少女である。
亜夜の心情が、特によく分からなかった。
なぜ、コンクールに出場しようと思ったのか。
母亡き今どこに住んでいて、何をしているのか。
空白の7年間、何をしていたのか。
そういうことはいっさい語られない。
母が亡くなってピアノが弾けなくなった。
そりゃ、悲しいと思う。
コンサートをドタキャンしたってしかたない。
しかし、本当に、
「そりゃ、悲しいと思う」
というわたしの想像で、亜夜の心情を分かった気になっていいのか?
「相手の気持ちを考えよう」
小学校の標語にありそうなフレーズだ。
たしかに相手の気持ちを考えることは大事だが、自分が勝手に決めつけた相手の気持ちが、本当に正しいのかは分からない。
小説にはきっとこの答えがあるはずだ。
そう思うと小説を読んでみたくなり、映画を観た帰りに、友人と本屋さんに寄って、文庫本を上下巻買って帰った。
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小説は、映画の50倍くらいの情報量がある重厚な作品だった。
この情報量を2時間にまとめようと思うと、心情が削られるのも致し方ないと思う。
わたしは映画を先に観たので映画のキャストのイメージで読んでしまったが、全員ぴったりだ。
原作への愛を感じる、とても素敵な映画だと思う。
しかし、映画を観た方にはぜひとも、原作の小説も読んでほしい。
原作は、登場人物それぞれの心情の移り変わりを、とても丁寧に描いているからだ。
それから。
小説は、文章から、“音楽がきこえてくる”からだ。
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わたしが「蜜蜂と遠雷」から受けたものは、鮮烈な喜びと羨望だった。
わたしは音から多くの心情を読みとれる耳は持っていない、と先ほど書いたけれど、音楽を聴いていて情景が浮かんだり、音が色に見えたり、様々な絵筆で描かれる線に見えたりすることは、ある。
同じように(というのもおこがましいけれど)きこえている人が、ほかにもいるんだ。
そう思うと嬉しくなった。
“針のような雨が降っていた”とか、
“真っ白な光の筋が見えた”とか、
これらはわたしが実際に音楽を聴いていて、感じたことのある景色なのだけれど、この感覚を他者と共有するのは非常に難しい。
どうしても、一方的に話を聞いてもらうことが多くなる。
その度に、
「ほんとにトトロ いたんだもん!」
という気分になっていた。
しかし、いくら周りと共有することができずとも、見えたものは見えたのだからしかたない。
「蜜蜂と遠雷」を読んでいると、そんな場面が次々と出てくるので、やっぱりトトロいたんだ。見間違いじゃなかったんだ、とうれしくなる。
もっとも、わたしの感じる情景と、演奏者の描こうとした情景が一致しているかどうかは、また別の話になってくる。
「蜜蜂と遠雷」では、演奏者の心が、音楽を通してしっかりと聴衆や審査員、そしてほかのコンテスタントにも伝わっている描写が多い。
これはただ、演奏者が優秀なだけでは生まれえないものである。
聴いている側の耳もよいからこそ生まれる、演奏者と聴き手との音楽の共有があるのだ。
音楽を共有するためには、演奏者が演奏力を磨くだけでなく、聴き手も聴く力を磨いて臨まなければならないのだな、と思う。
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そして、非常におこがましいけれど、音楽を聴いて、それをここまで言葉で紐解くことのできる恩田陸さんが、とても羨ましく感じた。
音を言葉で紡ぐということは、聴く才能と書く才能、双方が必要な作業である。
しかし、当然の事ながら、わたしは、恩田陸さんのように、聴いた音楽から大いなる景色を感じられる耳も、その景色を他者にとありありと思い浮かべられるように語る文才も持ち合わせていない。
ここまで音を言語化して、誰にでも伝わるように伝えられるのって、おこがましいけど羨ましい。
コンテスタントの奏でる音色が、言葉を媒介して、こうしてわたしのような凡人にも伝わる言語に下りてくる。
“分からなかった世界が 誰かの言葉を通したからこそ分かる”
ことはとてもうれしい。
そして同時に、その世界を、自分の言葉で伝えられる人のことを、とてもうらやましく感じるのもまた事実である。
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こんなにも音楽を言葉で紡いだ小説があることを、なぜ今まで知らなかったんだろうと、ずっと悔やんでいる。
直木賞と本屋大賞をダブル受賞した非常に珍しい作品らしい。
近頃全然本を読んでいないので知らなかった。
音楽を言葉で紡ぐこの小説が、文学の世界でもきちんと認められたことは、なんだかとてもうれしい。
「聴いた音を言葉にしたい」
一度でも、こう思ったことがある人には絶対に読んでほしい。